2011年08月24日 00時00分更新
私が、重粒子線がん治療の話をきちんと聞いたのは、もう5年も前のことになるだろうか 。 その装置が千葉県稲毛にあることを知った時、頭に飛来したのは、ソニー生命元会長の大蔵さんを見舞った日のことだった。もう14~15年前の夏だったような気がする。 実はこの時が、重粒子線治療施設と出合った最初の日だったと、後で知ることになる。
大蔵さんは、その名の通り大蔵省からソニーに来られた方で、東京大学から出征され、終戦時は特殊潜行艇乗りで奇跡的に生き延びた経験をお持ちの、スマートかつ特攻隊あがりらしい豪放磊落(ごうほうらいらく)な方だった。 私がソニー生命で仙台の支社長をしていた時代、松島湾をモーターボートでご案内した時にこんなことをおっしゃって、私の度胆を抜いたものであった。 「イヤー、若い頃、呉の軍港で上官を戦艦大和までボートで送って行ったことを思い出すな~」
そんな大蔵さんから、六本木のステーキハウスにご招待を受けたことがあった。 私のほかに招待された者が二人いた。一人は現ソニー生命会長のOさん、そしてもう一人は、前関連会社社長のAさんだった。 ご招待の理由は、三人とも人事で貧乏くじ(笑い)を引いたので、「励まし」と言うことだった。 Oさんは海外プロジェクトを、私たち二人は代理店プロジェクトの先達を命じられた時だった 。 社長が命じ会長がフォローする粋な計らいだった。
そんな大蔵さんとの最期の別れが、千葉の稲毛の現重粒子医科学センター病院の玄関だった。私の見舞いに、わざわざお見送りいただいたのだった 。 なんで夏のような気がするか。今でも、その玄関口で大蔵さんがパジャマの襟を開いて私に見せた、首の周りの照射跡をハッキリ覚えているからである。あの薄着は暖かい日だったに違いない。 (大蔵さんが受けられていた治療が重粒子線か他の放射線によるものか確認しておりません、しかし特別な放射線治療を受けているとおっしゃっていたことは記憶にあります)
それから6~7年たった頃だろうか。ソニー生命を辞め、エジソン生命 、マニュライフ生命を経て大和生命に在籍の頃、25年前にソニー生命にリクルートしたY氏が、数々の営業記録を残し、 退職して末期がん患者のコンサルタントになったことが聞こえてきた。 さっそく彼と連絡をとり、セミナー講師をお願いした。 そこで、彼の人生を大きく変えた、重粒子線がん治療と、その開発のリーダー、平尾東大名誉教授との出会いを聞かされたのである。 その話によると、平尾先生はY氏に「死んでから役に立つよりも、(人を)死なせない方をやらないか?」と語りかけたそうだ。その言葉に触発されたY氏は、ソニーグループ全体に働きかけ、ソニーによる重粒子がん治療施設を品川に設置・開設するプロジェクトを立ち上げるまでに、ソニーを突き動かした。しかしながら、後にそのプロジェクトは成就することなく、Y氏はソニー生命を去った。
大蔵さんとの出来ごと、Y氏との再会…。 まるで何かに導かれるように、私は重粒子線がん治療に興味を持つようになったのであった。
さて…。 記憶を昔にさかのぼっていると、ちょっと横道にそれて、他の出会いのお話もしたくなってきました。 たとえばソニーの創始者の盛田昭夫さんについてとか…。
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